脳と心の断捨離カウンセリング「天香」の、わたなべ じゅんです。
先日、中学の同級生と、奈良県天川村の「観音峯山」に登った。
「友」とは、十数年会っていなかったにもかかわらず、昨日まで一緒にいたようなくらい自然な空気感。
会わない時間の「喜怒哀楽」をツマミにしながら、尽きることのない会話で、展望台まであっという間に感じた。

子育ての期間中は、なかなか会えなかったのだけれども、その間みんなそれぞれに色々とあった。人が変わっても仕方がないような出来事も経験したけれども、私を含めて、みんな昔とぜんぜん変わっていない。不思議なものだ。
もう一つ不思議なことが、
「優しさに包まれて、癒された時間だった」という感想だ。

これは、心理カウンセラーとしては、素通りするわけにはいかない現象である。
私には、「竹馬の友」と呼ばれる存在はいない。竹馬に乗って遊んだ友達という意味の言葉のようだが、私は、中学に入るまでに7回引っ越しをしている。今でこそSNSというつながりがあるが、当時、そのような便利なものはなかったので、年賀状の存在と、その後に世に出た「メール」というツールのおかげで、かろうじて中学の友達と繋がることができていた。中学生ではさすがに「竹馬」では遊ばなかった。だから、今回この「観音峯山」に登った友達が私にとっては、一番の旧友になる。
頂上で、おにぎりを食べ、Tちゃんが温かいコーヒーを入れてくれた。
頂上に上がっても霧がかかっていて、雪がまだちらついていたので、体が冷えることを避け、長居することは出来ず、入れてもらったコーヒーで体を温めて、下山した。



下り道は、案外長く感じた。
「こんな道、通ったっけ?」
「こんな場所、覚えてない!」
「通ったよ、通ったよ!」

まるで、自分たちの歩んできた軌跡と、この山の下り道を重ねるようだった。
過去のフィルムを4人の頭の上で上映し、演劇を遡って編成するような作業が、繰り返し繰り返し行われた。
さて、私たちが「優しさに包まれて、癒された」という感覚は…
大いなる大自然のチカラであることは、間違いない。
澄んだ空気に、身体が喜んでいる感覚があったのは私だけではなかった。
それから、気を使う必要がないという関係性が、とても楽で居心地がよかった。
「気は配るもの。使うものではない。」と言われる言葉が、とてもしっくりとくる。
そして、互いが話すことに対して、誰も「判断」したり、「否定」することはなかった。
ただただわが身と重ねながら、みんながそれぞれの話をしみじみと聞いていた。
親にも家族にも言えなかったようなことを、話せる。という信頼と安心感があった。
下山をし、スタート時に渡ってきた川の橋に再び戻ったときには、日常のモヤモヤや心の疲れが全部流れていた。

「山」よ「友」よ、ありがとう。
最後に、私は自分の「足」に一番の礼をのべなければいけない。
「今まで勝手にあっちこっちふりまわしてきたけれども、これまでよくお付き合いくださいました。ありがとう。もうしばらくの間、お付き合いください。どうぞよろしくお願いいたします。」
歳をとるのも悪くない。素敵なことが沢山ある。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
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