脳と心の断捨離カウンセリング「天香」の、わたなべ じゅんです。
春休みに、孫たちとカラオケに行った。
私は昭和。娘は平成。孫は令和生まれ。
歌においてもジェネレーションギャップがあって当然のこと。
私は1曲目に「団子3兄弟」を歌った。
忘れている箇所もあったが、まあまあの拍手を獲得した。
2曲目は「およげたいやきくん」を歌った。
今さらながら歌ってみると少々せつない歌詞であったことを思い出した。
3曲目にはディズニー・アナ雪の「レット・イット・ゴー」を選曲したが、キーが高すぎて、溺れそうになった。
さすがに興味が無いと思うので4曲目以降は省略する。
4歳の孫は、カラオケからの帰宅後すぐにYouTubeで「団子3兄弟」を聴いていた。
世代が違っても、初めて聞いて耳に残るフレーズなのだろう。
串にささった団子は、1番上が長男で3番目が三男。
今度生まれてくるときも、願いはそろって同じ串。
できれば今度はこしあんのたっぷりついた「あんだんご」♪
と、歌詞は続く。
さて、「今度生まれてくるときも、そろって同じ串」と聞いて、うなづける団子さんと、絶対に嫌だという団子さんに、意見は分かれるのではないだろうか。
さてまた、同じ串でもいいけど、順番を変えてほしいとか…
私には2人の娘がいて、同じ親で同じ環境に育ったのに、性格は180度違う。兄弟というものは、同じ串にささっていても、それぞれに個性が違う。
ゆえに、物事の捉え方も、大事にしたい事柄も違う。むしろ同じところを探す方が難しい。

親は、出来る限りに平等に育てたつもりでも、「お兄ちゃんの方が…」「妹の方が…」「弟ばっかり…」と不満の声を浴びることは、しばしばである。
問題は「親」。
差を感じさせた「親だ!」と思う(団子)人もいるだろう。
親からすると、串にささった愛しい団子たちなのであるが、子供からすると1つの串にまとめて考えられたり、時に比較されたりでは、たまったもんじゃない気持ちになるときがある。

他愛もない程度であればいいけれども、時には、それが生き方を左右することにまで発展したり、人生の大部分をそのことで苦しんだりする場合もある。
一層、イヤでイヤで仕方がなければ、串から抜けて、自分という1つの団子に生まれ変わればいい。
こしあんだろうと、つぶあんだろうと関係ない。串にささっていたころの事など、気にしなければいい。自分がなりたいものになればいいと思う。

と、言うが易しであるが、そう。簡単に「串時代」を捨て去れないのが人間。
困ったことに、苦い記憶ほど捨て去ることが難しい。
そろって同じ串がいい。
いやいや、もう勘弁してほしい。
同じ串でも別の親に生まれたい!
単独団子で生まれたい。
願いはそれぞれであるだろうけれど、残念ながら、串にささる順番も親も、自分で選んだ記憶がないまま、気がついたら、この世界に放り出されているのだから仕方がない。
そう。
仕方がないから、今は、目の前の「今」を生きることが大事だ。
ひょっとしたら自分の方が、串は一緒だと考えてしまってはいないだろうか?
同じ串にささっていても、どのように生きるのかは、違っていいし、実際に違う。
生涯をそのままで生きることも良し!串から離れて生きることも良し。
もはやその「串」や「焼き手」のせいにしたところで、どうしようもない。
ここまでもがき一生懸命に生きてきたことによって、味わい深くなった自分に誇りを持とう!
ただ、心に刺さったままの串があるのならば、抜くことを応援したい。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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