足裏の「たけのこ」

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脳と心の断捨離カウンセリング「天香」の、わたなべ じゅんです。

和歌山県の知人グループから「たけのこ掘り」に誘っていただいた。
朝掘りのたけのこは、みずみずしくてとても美味しかった。
たけのこは、胃腸の働きを助ける食物繊維が多く含まれていて、その上たんぱく質も豊富。

そして野山には、栄養たっぷりな食物がたくさん。
椎茸や豆や決明子、クルミや栗やキンカン、和歌山は暖かい場所なので、果物も沢山育っている。
素敵な場所だ。

植物と、人間の体はどこか似ている。
文字を考えた昔の人は「すごい」と思う。

「芽」=「目」
「花」=「鼻」
「実」=「身」
「葉」=「歯」

そういえば、娘が中学の頃、友達たちと「心はどこにある?」という話題になった現場に居合わせたことがある。
誰かは、心臓のところに手を当てて、「ここ!」と言った。
「頭」という子もいた。
活発で明るい性格でムードメーカーだったSちゃんは、「口!」と言って、
みんなで笑ったことが懐かしい。
私がサポートする「記述式内観」というものでも、不思議に感じることが多々ある。
研修者が、思考を超えたところで自然に手が動くという場面を、何度も目のあたりにしてきている。もしかしたら、「心」は手にあるのか?
また、画家ベン・シャーンの手首の画は、手や指が、それを描くものだということを表現しているという説がある。

そして私の師は、潜在意識は体の外側にあると言っていた。当時驚いたことを覚えている。

本当のところは、私にはわからない。
ただ、勝手な想像で、こじつけかもしれないけれど、「心」という語は「衣」から来たんじゃないかと思うことがある。
「オーラ」という言葉で表現されることもあるし、天女様みたいな絵には、「衣」みたいなものが描かれていたりする。
人は、目に見えなくとも、なんとなくその人の雰囲気を、その周りに醸し出していると感じる。
強いお相撲さんなんかは、体の周りに炎が燃えているよう見えることがある。
「第一印象」や、会った時のインスピレーションも、その類ではないかと思う。

身体の縁(ふち)にまとうものを「縁」(えん)と読むとしたら、もっとしっくりくる。

その人の思考や感情やそのすべてを、目に見えない「衣(心)」で覆っているとしたら、「縁」は、人や場所や様々なものを、くっつけたり離したりする磁石のようだ。
「類は友を呼ぶ」といわれるように。
時に「縁」は、自分にとって、うれしいものばかりではないこともあるが、そのことが、一昔前になってしまい振り返ると、自分を強く成長させる出来事に遡ったりすることもある。

それを「必然」と言われてしまうと、乱暴に感じるし、なんとなく人生を「神」まかせに思ってしまうので、私は好きな表現ではないけれど、紡がれた「縁」なら仕方がない。馴染むなり、ほどくなりするしかない。わかっていることは、自分の意図しているところ以外でそれが働いているということだ。

今回、「たけのこ堀り」に参加させていただいた農家の主が目指していらっしゃることは、パーマカルチャーの実現。(農業を軸に、人と自然が共に豊かになる持続可能な暮らしを実現するための考え方のこと。)
震災の体験を機に、そのような考えが強くなっていかれたらしい。

豊かな時代に生まれ、たくさんの「いのち」の恩恵によって生かされていることを、つい忘れてしまう昨今。楽しい時間の経過と並行して、色んなことを考える時間にもなった。

ふかふかで柔らかい土のふくらみに、地中で芽吹く小さいながらも元気な命を足裏に感じ、「あ、ごめんね」と、謝まる。
新芽を踏んでしまわないように気を付けて歩く。


「さて… そんな風に、毎日をちゃんと丁寧に、気を付けて生きているだろうか。」

大ざっぱに風が吹き、紙コップの中の飲み物にも、灰や小さな葉っぱなどが混入するが、気にならない。
いつもであれば、コップの中に異物は、ノーサンキューと言いたくなるところ…

普段、気を働かせることと、そうでないことが逆になって生きてはしないかと、ふと思う。

日常から、一歩外に出ると、気づかせてくれる「ご縁」が沢山ある。
素敵な「縁」に恵まれますよう
目には見えない「衣」を濁らせてしまわないように心がけたいと思う。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

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