脳と心の断捨離カウンセリング「天香」の、わたなべ じゅんです。
夫の両親、私の両親、4人はガタガタ元気。
4人の歳を合わせると、現在「333」歳。
微妙な年頃もあって、元気な時と元気じゃない時が当然にある。
歩く際には杖が必要、お箸は使えない、腰の痛みで長い時間座っていられない、補聴器無しでは聞こえない、同じ話を何度もする、さっき話したことをすぐに忘れる、ものをどこにやったのかわからない、思い込みが強くなる、記憶を勝手に塗り替える…
お年寄りによくあると言われることが、我々の親たちにも起こってきている。

でこぼこコンビのように見える両親だが、出来る限りのところまでは夫婦で協力しあって頑張って欲しいと思うし、必要を上回るサポートなど手を出さないようにしている。
それが出来るのは、ありがたいことに、どちらも配偶者が健在だからだ。
調子が良くないときは、「早くお迎えが来て欲しい~」などと、いうこともあるけれど、最近、両方の父親が、「100歳まで生きる!」と言い出しはじめている。
母親たちも、ついこの間までは消極的な発言をしていたのだけれども、父親たちにつられてなのか、「100まで生きるって、迷惑なお父さんね~」と言いながらも、「それでは私もがんばらないと!」というような気持になっていることが、ひしひしと伝わる。
私からすれば「謎」。失礼ながら「謎」だった。
痛いところは増えるばかり、話す会話は病気や体の不調が大半、「もうだめ」「もうむり」、今まで出来ていたことが徐々にできなくなっていく、行動範囲も狭くなっていく…

それでも長生きをしたいと思うのは、何故なんだろう?
父親にこっそり聞いてみた。
ストレートには聞けなかったが、人生について話を聞いたところ、
「人生は60歳を過ぎたころからが、おもしろい!」と言っていた。

うむ~ たしかに。
60歳まであと何年かと、カウントダウンをし始めている私にも、その感覚は、なんとなくだが、わかるような気がする。
20代、30代は、楽しいことも沢山経験できたが、その頃に戻りたいとは、あまり思わない。
失ったと感じるものは沢山あるけれど、歳とともに得たものも多いと感じるからだ。
恥ずかしながら若い時には、冷蔵庫を開けたときに食べれるものが何も入っていなかっただけで、親に腹を立てたりしたこともあるが、
今、冷蔵庫を開けて、誰かに腹をたてるなんてあり得ない。
むしろ、疲れて帰宅して、その扉をあけて何も食べるものを入れていなかった時に、親へのありがたさを思い出す。

父の言ってることの少しがわかる気がした。
私は、今あるもののことを基準に考えて、歳月とともに欠けていくものを見ていた。
心理学でいう、「ゲシュタルト」での、ものの見方だ。
あったことに、深々と「ありがたさ」を感じ、時折感じる「痛み」という「苦痛」にさえも、自分の心を同化させないように生きるということを実践している父たち。
身体は衰退していくけれども、心は豊か。
そういうことではないだろうか。
人は、幼くても老いても、自身の心の成長を感じたときに、人生を楽しく感じると思う。
「歳をとると子どもに返る」と言われるれども、「魂は歳をとらない」と言うことなのだろうか。
色々なものをそぎ落とし、ようやく「魂」のままに自由に生きられる時間を楽しんでいるように見える。
人は、心を空っぽにして、はじめてそこに新しいものが入る。
ある種の、「あきらめ」「わかれ」などを受け入れ、乗り越えたゆえの、ご褒美なのかもしれない。

老いては、他人に迷惑をかけたくないと思うし、家族にも負担をかけたくないと思う。
しかしながら人は、最期に平均60日間誰かの世話にならないと、逝けないというデータが出ている。
いつその日が訪れても、「恐れ」ではなく、人生全う「おめでとう」の心で、自分も逝きたいと思う。

生きるものすべてに、平等に訪れる「老い」と「死」。
「まんざらじゃない」という生き証人の、これからをもう少し見させていただこう。
「100歳」まで生きられると、こちらの方が気を付けないと「お先に失礼」となりかねないが、いくつになっても、親は越えられないと、歳を追うごとに実感するこの頃である。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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